STORY:役人町の町家 01

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かつての庭にて撮影された家族写真。後ろに、庭中央にあった井戸の滑車が見える。清澄な水を湛えていたという(昭和20年代後半)。

堀川中立売西入ル、役人町。

その名の由来は、平安京の禁裏の役人が住んだことにちなみます。この界隈は、都が開かれてからずっと政治の中心と隣り合わせでした。関白・秀吉が聚楽第を築いた頃は大名の邸宅が並びましたし、関ヶ原の合戦後に徳川家康が造営した二条城も目と鼻の先にあります。

本連載の“主人公”は、役人町は中立売黒門南角に建つ、約120歳の町家。2018年夏から改修工事がはじまり、できるだけ原型を保つかたちで、次の50年、100年の命をもつなごうとしています。一軒の町家がその命を守られ、住み継がれるまでの物語をお届けしてまいります。

まずは、この家が生まれた頃のこと、そして前オーナー・田中熙士(ひろし)さん、藤井洋子さんが暮らした頃のことを、お二人に聞かせていただいたお話を交えてお伝えします。

糸屋さん、料理屋さんから病院に。

役人町の町家は、間口約七間(約12m)もある切妻平入りの大きな家。中立売通りを歩く人なら、「黒門通の角にある大きな町家」と言えばおわかりになるかもしれません。

古い土地台帳によると、ここは明治28年(1895)から昭和9年(1934)までは、糸屋さんであったようです。その後、「木藤(きとう)」という料理屋を営んでいた水口喜三郎さんを経て、昭和13年(1938)に、前オーナー・田中熙士さんのお祖父さん、田中登喜次さんが「田中診療所」を開業します。

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田中診療所。中立売通りに面した部屋が診察室、玄関を上がると木製の受付カウンターがあった。

登喜次さんは長崎で医師となり、大正10年代に妻と3人の子を伴って上洛しました。一人息子の兵馬さんは、昭和15年(1940)京都帝国大学医学部(京都大学)を卒業すると、父と同じく医師の道を歩みます。そして2年後、8歳年下の日出子さんと結婚。役人町の家では、2世代の夫婦4人での暮らしが始まりました。

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左、京大医学部を卒業した兵馬さん、当時19歳だった日出子さん。右、ふたりの結婚写真。戦時中ながら、華やかな式が挙げられたようすが伝わる。

気がつくと、住人の数がどんどん増えていた

兵馬さんと日出子さん夫妻は、結婚した翌年に新しい命を授かりました。ところが、順風満帆の新婚生活に、つらい知らせが届きます。昭和16年(1941)に始まった太平洋戦争のため、兵馬さんが召集令状を受け取ったのです。

兵馬さんは、長男・熙士さんを抱くこともかなわぬままに中国へ出征。終戦を迎えたときには、肺を病んでしまっていました。上海の病院を経て、なんとか無事に京都に戻ってくることはできたものの兵馬さんは病から回復せず、次女・洋子さんが生まれる直前に他界されます。

さらに、満州で暮らしていた兵馬さんの姉・牧野つるゑさんの夫も戦死。兵馬さんの妹・増田相子さんの夫は、胃がんで早逝されてしまいます。

登喜次さんは、亡き息子の嫁と孫ふたりが残された家に、伴侶を失った娘たちを呼び寄せることにしました。奇しくも、夫を失った女性たちが3人、共に暮らすことになったのです。

しかし、彼女たちは悲しんでばかりはいませんでした。戦後の混乱が落ち着くと、つるゑさんは京都府立大学医学部で学び、眼科医として田中診療所で働くようになりました。日出子さんもまた、大家族となった家を切り盛りしながら、看護師、助産師の資格を得て診療所を手伝いました。

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昭和26年3月、看護師の資格を得た日出子さんの写真。左下は、用水の蓋の上で遊ぶ洋子さん、右下は縁側で遊ぶ熙士さん。

叔母といとこが住みはじめた家は、一気に賑やかになりました。「一番多い時は、お手伝いさんも含めると10人以上で暮らしていた」と、洋子さんは当時のようすを振り返ります。跡継ぎを失った後、登喜次さんは「子どもも、孫もみんな医者にして、家族で総合病院をつくる」という新しい夢を抱いていたのだそう。

「母はふわぁっとした人だったから、何の疑問も持たずにみんなの面倒を見ていました。看護師、助産師の資格を取ってからも、外に勤めに出ることはせず、ずっと家のことだけをしてくれていました」。

「居心地がいい」から人が集まってくる

田中診療所は、患者さんだけでなく、いろんな人たちがやって来ました。

登喜次さんは人を招くのが好きだったようで、謡のお仲間を招いたり、遠縁の親戚が泊まりに来たりすることも多く、「子どものころはいつも誰か知らない人が泊まっていた」と熙士さん。台風の夜には、待合室を開放して近所の人たちに避難してもらったこともあるそうです。

お勝手に出入りする八百屋さんや魚屋さん、近所の人たちも、立ち寄ってはちょっと腰掛けてのんびりしていきました。日出子さんは、誰が尋ねてきてもイヤな顔をすることなく対応し、なにくれとなくお世話をしてくれたからです。

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登喜次さん熙士さん、庭にて撮影。

茶室がある広い庭には、登喜次さんが選んだ珍しい木も植えられていました。子どもたちにとっては格好の遊び場です。洋子さんが友だちを呼んで木の実や花びらでおままごとをしていると、日出子さんはお菓子をつくってくれました。

「家にいるとすごく落ち着いたという記憶があります。鳥や虫も来るし、いろんな動物もやって来ました。近所のねこが茶室の座布団で悠々と寝ていたりね。梅、びわ、いちじく、橙の木などもあって、季節ごとに実が成るのも楽しみでした」。

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玉砂利の敷かれた庭で、若かりし頃の熙士さん。登喜次さんは、お客さんをもてなすとき、この白い石を手で洗って清めていたそう。

日出子さんは、季節ごとの家のしつらえも大切にしていました。毎年6月1日には、家のなかの建具や敷物などをすっかり夏姿にしつらえを替えました。すだれをはめ込んだ夏障子は風通しがよく、真夏でも夜になればひんやりと涼しかったそうです。

元日の朝には、井戸から汲んだ冷たい”初水”で顔を洗い、蔵から出したお膳の前に家族揃ってお席に着きました。お正月のしきたりは、日出子さんが亡くなるまで続きました。

町家の姿のままで残していきたい

昭和40年(1965〜)代に入ると、登喜次さんの引退に伴って「田中診療所」は、眼科医のつるゑさんが引き継ぐかたちで「牧野眼科医院」になりました。登喜次さんが亡くなり、大きくなった子どもたちは家を離れましたが、日出子さんは変わらず、夫の姉妹であるつるゑさん、相子さんと暮らし、ふたりの最期も看取りました。

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現在も、看板に「牧野眼科医院」の名前が残っている。

熙士さんは、「生前から、母は私たちにこの家を継いでほしい、墓を守ってほしいと望んでいた」と言います。

「若くして夫を亡くした母は、家を守り、位牌を守り、お墓を守る70年でこの世を去りました。祖父、祖母、父の位牌のある仏間で息を引き取るとき、やはり母の遺言は『家を守ってほしい』だったんです」。

しかし、それぞれに家庭を持って暮らしている今、役人町の家に戻ることはなかなか難しい。一時期は「更地にして土地だけ売る」という案も出ましたが、熙士さんと洋子さんはどうしても頷くことができなかったそうです。

「あの家で生まれて、祖父や母が大事にして来た姿を見ていたから、ものすごく愛着があって。兄も『あの家が壊されていく姿を見ることを考えたら、胸が裂けるような思いがする』と言っていましたね」。

ふたりは親戚のみなさんと話し合い、「元の家の姿を残す形で使ってもらうこと」を条件に、次のオーナーになってくれる人を探すことにしました(つづく)。

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前オーナー・田中熙士さん、藤井洋子さん

【参考文献】

  • 新鮮増補『京大絵図』貞享3(1686)年
  • 『京都地名語源辞典』吉田金彦、糸井通浩、綱本逸男 編、東京堂出版
  • 『京都商工人名録』明治36年
  • 『京都電話番号簿』明治45年
  • 『京都市電話番号簿』大正11年、昭和11年、昭和13年